ある日(1)
朝、お風呂に入りたいなと弓子さんが言った。
頼まれてはいないけど、ぼくは浴槽を洗って、お湯を張った(えらい)。
寒い浴室のことを頭に入れて、少し熱めのお湯にした(すごくえらい)。
「お風呂入ったよー(ドヤ)」
ぼくは寝室にいる弓子さんに声をかけた。
それなのに、弓子さんはいつまで経ってもお風呂に行かなかった。
お風呂に行く準備をしているのかと思ったら、
裁縫仕事を終わらようとしたり、お茶をいれたり、
ついには囲炉裏の炭の手入れまで始めてしまった。
せっかく適温になるようにしたのに、とぼくは心の中で拗ねた。
でも、よくよく思えばこれが弓子さんのペース。
いつも素晴らしいタイミングの中で生きている。
弓子さんがお風呂に入るのを見届けて、ぼくはPC作業に集中することにした。
細かい文字と数字にもてあそばれて大変だった。
あくせくしすぎて、少しのミスでも、心がざわついてきた。
そうしているうちに、手足がキンキンに冷え切って、喉がカラカラになった。
すると、湯気をまとった弓子さんが、部屋に戻ってきた。
ふと気付いたら、1時間近く経っていた。
ほど良く温まったからか、弓子さんの表情は柔らかかった。
それとは逆に、ぼくの心身は勝手にボロボロになりかけていた。
このままじゃ、ろくなアイディアも浮かばない。
ぼくもお風呂に浸かって、全身のこわばりほぐすことにした。
ただ、うちのお風呂は、追い焚きのシステムがない。
残り湯の使い道を見出せないまま、しばらく経っている。
最近は、浴室を出る時にお湯を抜くことが大半だった。
結局、弓子さんが出た後の浴槽にもう一度お湯を張った。
普段なら効率などを考えて、浸からないことを選んでいた。
服を着込めば、暖かさを取り戻すことができるし、
もともと、寒さに強い人間だと自負があるから。
そんなぼくが、効率を無視するのは革命的だったかもしれない。
半身浴ができるくらいのお湯の中で、ぼくは目をつむった。
心地よい姿勢をつくって、じっとしていると声が聴こえた。
ぼくによく無視されている、もう一人のぼくの声だった。
こういうとき、彼はたいてい小言を言う。
たまにしかコンタクトのとれないぼくを、馬鹿にして笑う。
でも、今日の彼はいつもと違った。
お湯を張りなおして、お風呂に浸かる選択をしたぼくを褒めた。
「やればできるじゃん。いつもこうだったらいいのになあ」
「地球で遊んでるからしょうがないんだよ」
ぼくは口を尖らせて答えた。彼は「まあね」と言って笑った。
こんなにはっきりと声が聴こえる日もなかなかない。
ぼくに何か言いたいことはあるかと訊ねると、彼は即答した。
「言い出したらキリがないくらいあるよ。でも今日はひとつだけ」
それはぼくという人間の性質を踏まえた上でのアドバイスだった。
彼からアドバイスがあるなんて、ほんとうに珍しいと思った。
「聴く耳を持たないから聴こえてないだけだよ」と彼は言った。
天の一声を受けたぼくは、すぐにお風呂を出た。
身体は十分に温まったし、気分も心底晴れやかだった。
ぼくは早速、もう一人のぼくの話を弓子さんにした。
せっかくだから、もう一人のぼくを降ろした状態でしゃべった。
すると、少し眉をひそめながら弓子さんは彼に訊ねた。
「それ、ずいぶん前からわたしが言ってたことですよね?」
もう一人のぼくは明るい様子でこたえた。
「あなたの言葉は五歩くらい早すぎて、彼には聴こえないんだ」
と言ってすぐに、
「彼に両の耳はついているけれど、ついていないのと同じくらいさ」
と付け加えた。
もう一人のぼくは、もはやぼくの未熟さを面白がっているようだ。
たしかに面白いけれど、まだ腹の底から面白がることはできてないなあ。
とりあえず、アドバイスされたことを実践しようと、
弓子さんに背中を押され、ぼくはPCに向かうことにした。
(こじょうゆうや)
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